2009年 04月 01日
フィリピン |
「愛国行進曲」という歌がある。今から、70年以上も前に作られた曲だ。
「・・・わが日本の誇りなれ」
という言葉で終わるこの歌は、勇ましい旋律に加え、力強い歌詞で構成され、当時、多くの日本人に口ずさまれる歌となった。太平洋戦争前、日本では戦争に向けて、国民の意識を高揚させようと、さまざまな国策がなされていた。政府機関によって作られたこの歌は、いわば国民の戦意高揚のためのプロパガンダと言っても過言ではない。
戦後64年がたった今、この歌を知る人はほとんどいないだろう。まして、平成生まれで戦争を知らない私が知る由もない。しかし、私はふとしたきっかけでこの歌の存在を知ることとなった。
3月23日、マニラからフィリピン日系残留孤児の2人が来日した。齢74、80にもなる2人が遠路はるばる来日した目的は、裁判所に提訴し、自らが日本人であることを証明し、日本国籍を取得するためだ。そして、その不条理な境遇を世間にアピールするためだ。
「愛国行進曲」は、そんなフィリピン日系残留孤児(*)の人たちから教えてもらった歌だ。
3月24日、私は四ツ谷にいた。彼らと会うのは、昨年の夏以降、2回目である。彼らが宿泊するホテルに行く。フィリピン残留孤児の存在を知ったとき、彼らの現状を知り、少しでも話を聞くことができたらと感じた。それ以降、帰国する時の手伝いとして、彼らを支援するNPOのボランティアをするのが、今回で2回目だ。私にできることは、車いすを押すことや彼らの食事の買い出しに行くことぐらいである。
半年振りだが、私のことを覚えてくれているだろうか。不安とともに、再会できる期待を感じる。
Tさんは、齢80歳にもなるうえ、4年前に盲目となった。車いす生活を余儀なくさせられているが、今回も付き添いのお孫さんと来日した。お孫さんは、私を覚えてくれたようだ。会ったなり、「大学の調子はどう?」と尋ねてきてくれた。しかし、Tさんは、残念ながら私のことを覚えてないようだった。年中常夏のフィリピンと違って、3月の日本はまだ気温は低い。Tさんは寒そうだ。
もう1人のYさんは、私のことを覚えてくれていたようだ。私の姿をみつけるなり、笑顔で答えてくれた。Yさんも、車いす生活で、付添の娘さんと日本にやってきた。Yさんにお会いするのは、半年振りだが、以前にも増して、深く刻まれたシワが際立っている。
2人と会った後、家庭裁判所で裁判の手続きを終え、記者会見が行われる場所へと移動する。ホテルや裁判所など訪れる先々で、見慣れない肌の色をした車いすの一行に人々から奇異の目線が向けられる。
会見場に到着する。待ち構えている報道陣は、15人ほどだ。NHKのカメラも来ていれば、朝日新聞の記者も来ている。そうこうしているうちに、記者会見が始まる。
「何か日本に関することで覚えていることはありますか?」
1人の記者がある質問をした。TさんとSさんが質問に対して答えたのが「愛国行進曲」を唱和することだった。
メロディーを口ずさみ始めたときから、記者のメモを取る手も、シャッターを切る手も止まる。歌を唄うYさんとTさん以外の人間は歌に聞き入っていた。それまで退屈そうにしていた国会議員も体を乗り出し、耳を傾けていた。まるで、その場の空気が止まったようだった。
Tさんは、この歌を日本の兵隊に教えてもらい、Yさんは熊本からフィリピンに移民したお父さんに教えてもらったそうだ。今では滅多に歌われない70年前の歌を、かなた離れたフィリピンに住む日系人が完璧に覚えていることは、私にとって純粋な驚きであった。彼らが歌う姿は、日本人であるという証そのものであるように感じる。その場にいた人間は、きっとそう思ったに違いない。
彼らは、日本語で数や家族の名前を言うことはできても、ほとんど日本語を話すことはできない。もしかしたら、歌詞の意味はわからないかもしれない。でも、その歌を忘れないのは、自分が日本人であるという誇りを心の中でずっと抱き続けているからではないか。あるいは、生き別れとなった父の故郷である日本への望郷の思いもあるのではないか。
歌を口ずさむたびに、幼いころの父の記憶や、戦前のフィリピンでの幸せな生活、あるいは、戦争のつらい記憶を思い出すのだろう。その音色は、彼らの体に深く刻まれたままだ。
「国籍が認められなくて、とても悲しいです。どうか、日本の皆さん、国籍を認めてください。」と、Tさんは語る。
「愛国行進曲」。
これは、戦前、人々が日本国への忠誠を誓い、戦意を高揚させ、日本を愛するために作られた歌だ。平和になった今、日本人が国家への忠誠を誓う必要もなければ、戦意を抱くこともない。しかし、日本を愛すること。これに関して言えば、いつの時代も日本人は、母国を敬愛してやまなかっただろう。しかも、日本人なら、母国を愛する権利を認められてしかるべきだ。
だが、もしその権利がはく奪されてしまったら・・・そう考えると、心から母国を思い、愛せることができない。いくら昔の歌を諳んじることができても、国籍というアイデンティティが回復されなければ、日本人であるという心の拠り所を感じることはできないのだ。
記者会見が終わり、ホテルへと帰る車中のこと。Tさんは、私に、さらに「しょーしょー、しょじょうじ」と歌い、「証城寺の狸ばやし」や「高い山から谷底見れば」という民謡を教えてくれた。歌うときのTさんは、何だかいつも楽しそうだ。
日本から3000キロ離れたフィリピンに70年以上住む人間が、20年間日本で生きてきた1人の学生に対して、民謡を教える。なんだか不思議な構図だが、これこそ彼女が日本人であるという何よりの証なのではないかと感じた。
ホテルに到着し、2人に別れを告げた後、帰路に就く。目の見えるYさんとは、がっちり握手をして別れた。帰りの電車の中で、1日を振り返り、2人に再会できた喜びとともに、虚しさを感じた。
彼らが帰国する時は、特別な在留許可が下りている。なぜなら、彼らはフィリピンの国籍もなければ、日本の国籍もなく、パスポートを持たないからだ。来日するたびに、入管では一時間以上待たされ、今回も個室に連れて行かれて細かい審査を受けたそうだ。
今後、彼らは、国籍回復を求めるために、何回老体にムチをうち、来日しなければいけないのだろうか。今回の旅は、2泊3日だが、高齢の彼らにとって、体力の消耗は激しいはずだ。彼らと日本で会う回数が増えれば増えるほど、問題の解決は先延ばしにされてしまう。そう考えると、彼らと会うことを単純に喜んでいるわけにはいかない。
そんな矛盾を感じながら、都心を後にした。
昨年7月に来日し、私が会った日系人は16人。それから半年余り、16人の中で2人が国籍を認められ、今回お会いしたTさんとYさんの2人は認めれれず、却下された。今回は、控訴するための来日だ。国籍が認められた2人はきっと喜んでいることだろう。残りの12人はフィリピンで裁判の結果を待っている段階だ。
こうしてキーボードを叩いていると、12人のうち、数人の日系人の方の顔が思い出される。
Nさんは、残留孤児ではあるが、戦後、横田基地で働いていたため、日本に滞在した経験がある。16人の中で唯一日本語が達者で、タガログ語が話せない私によく話しかけてくれた。私と東京タワーに観光で一緒に登った時に、眼下に見える東京の街を指さしながら、昔の東京の様子を説明してくれた姿が懐かしい。
また、Sさんは、父親が愛媛出身だったそうだ。私が、かつて愛媛に住んでいたことを話すと、「愛媛は、日本地図のどこにあるのか?」とか「何が有名なのか?」と様々なことを尋ねてきてくれた。帰国する時に、お土産にと私が、ポンジュースをプレゼントし、「オレンジが有名なんですよ」と英語で言うと、嬉しそうにそれを鞄にしまってフィリピンに帰って行った。
私は、今でもSさんがたびたびかけてくれたこの言葉が忘れられない。
゛When will you come to Philippine ?”
最後にこの言葉を聞いたとき、私は住所が書かれたメモを彼女から受け取った。
”Maybe this holiday, or spring holiday.”
と私は答えたが、結局、約束を果たすことはできていない。年末には、クリスマスカードも届いた。
彼女は元気にしているだろうか?と思う。
私は、今までで2回、フィリピン日系残留孤児の方々とお会いし話すことはできた。しかし、具体的にそれぞれの戦中前後の深い話や体験は聞くことができなかった。個々の体験こそ、歴史を知り、戦争を考える上で重要である。もしかしたら、日系人の話を聞き、書き記すことは、問題解決の助けになる可能性もある。
実際には、そんな大それたことはできないかもしれない。
しかし、またいつか彼らに会うために、今度は私がフィリピンを訪れたい。
*フィリピン日系残留孤児とは・・・
1910年代、沖縄などから多くの日本人男子がフィリピンへと移住した。フィリピンでは、マニラ麻という繊維が大量に栽培され、軍艦のロープに使われ重宝されており、多くの日本人が労働者として働いていた。日本人男子の多くは、原住民の女子と結婚し、子供をもうけることとなる。
労働者が増えると、自然とその人たちを相手にした商店、飲食店、歓楽街、ホテルなど産業が生まれ、人口も増え、町が形成されていくのが常である。戦争を目前に控えた1940年代には、フィリピンの移民人口は1万人を越え、ダバオという地域では日本人街が作られるまでになった。フィリピンでは、豊かな日系人社会が営まれていたのだ。しかし、その繁栄は、戦争によって破壊されてしまう。
当時、アメリカの占領下にあったフィリピンに日本軍が、侵攻してくると、日系人は戦争協力を強制され、日本人社会はまるごと国家総動員体制に組み込まれる。中には、現地召集として無理やり日本軍に徴用されるものもいた。また、戦後は、日本人男子の多くが強制送還されてしまう。
軍隊に徴用されたにせよ、強制送還されたにせよ、日系人社会の多くの家庭が、一家の大黒柱を失い、母と小さな子供だけが残されてしまうこととなる。しかも、戦後、父が戦死したり、強制送還によって、身元不明になり、戦争以降、父と再会できていない子供たちがほとんどである。
フィリピン日系残留孤児とは、そのような日本人の父と原住民の母との間に生まれた子どもで、戦後63年たっても、フィリピンに残され、日本人としての国籍はおろか、戦後保障や権利などを受けることのできない人々の事を指す。
彼らは、戦後、反日感情の高いフィリピンで、日系人であることを隠し、改名し、隠れて生きてきたものが多い。現在フィリピンでは、そのような身元のわからない日系人の数が800人を越えるといわれている。子どもと言っても、戦後60年余りがたった今、彼らは70、80歳を超えた高齢である。
「・・・わが日本の誇りなれ」
という言葉で終わるこの歌は、勇ましい旋律に加え、力強い歌詞で構成され、当時、多くの日本人に口ずさまれる歌となった。太平洋戦争前、日本では戦争に向けて、国民の意識を高揚させようと、さまざまな国策がなされていた。政府機関によって作られたこの歌は、いわば国民の戦意高揚のためのプロパガンダと言っても過言ではない。
戦後64年がたった今、この歌を知る人はほとんどいないだろう。まして、平成生まれで戦争を知らない私が知る由もない。しかし、私はふとしたきっかけでこの歌の存在を知ることとなった。
3月23日、マニラからフィリピン日系残留孤児の2人が来日した。齢74、80にもなる2人が遠路はるばる来日した目的は、裁判所に提訴し、自らが日本人であることを証明し、日本国籍を取得するためだ。そして、その不条理な境遇を世間にアピールするためだ。
「愛国行進曲」は、そんなフィリピン日系残留孤児(*)の人たちから教えてもらった歌だ。
3月24日、私は四ツ谷にいた。彼らと会うのは、昨年の夏以降、2回目である。彼らが宿泊するホテルに行く。フィリピン残留孤児の存在を知ったとき、彼らの現状を知り、少しでも話を聞くことができたらと感じた。それ以降、帰国する時の手伝いとして、彼らを支援するNPOのボランティアをするのが、今回で2回目だ。私にできることは、車いすを押すことや彼らの食事の買い出しに行くことぐらいである。
半年振りだが、私のことを覚えてくれているだろうか。不安とともに、再会できる期待を感じる。
Tさんは、齢80歳にもなるうえ、4年前に盲目となった。車いす生活を余儀なくさせられているが、今回も付き添いのお孫さんと来日した。お孫さんは、私を覚えてくれたようだ。会ったなり、「大学の調子はどう?」と尋ねてきてくれた。しかし、Tさんは、残念ながら私のことを覚えてないようだった。年中常夏のフィリピンと違って、3月の日本はまだ気温は低い。Tさんは寒そうだ。
もう1人のYさんは、私のことを覚えてくれていたようだ。私の姿をみつけるなり、笑顔で答えてくれた。Yさんも、車いす生活で、付添の娘さんと日本にやってきた。Yさんにお会いするのは、半年振りだが、以前にも増して、深く刻まれたシワが際立っている。
2人と会った後、家庭裁判所で裁判の手続きを終え、記者会見が行われる場所へと移動する。ホテルや裁判所など訪れる先々で、見慣れない肌の色をした車いすの一行に人々から奇異の目線が向けられる。
会見場に到着する。待ち構えている報道陣は、15人ほどだ。NHKのカメラも来ていれば、朝日新聞の記者も来ている。そうこうしているうちに、記者会見が始まる。
「何か日本に関することで覚えていることはありますか?」
1人の記者がある質問をした。TさんとSさんが質問に対して答えたのが「愛国行進曲」を唱和することだった。
メロディーを口ずさみ始めたときから、記者のメモを取る手も、シャッターを切る手も止まる。歌を唄うYさんとTさん以外の人間は歌に聞き入っていた。それまで退屈そうにしていた国会議員も体を乗り出し、耳を傾けていた。まるで、その場の空気が止まったようだった。
Tさんは、この歌を日本の兵隊に教えてもらい、Yさんは熊本からフィリピンに移民したお父さんに教えてもらったそうだ。今では滅多に歌われない70年前の歌を、かなた離れたフィリピンに住む日系人が完璧に覚えていることは、私にとって純粋な驚きであった。彼らが歌う姿は、日本人であるという証そのものであるように感じる。その場にいた人間は、きっとそう思ったに違いない。
彼らは、日本語で数や家族の名前を言うことはできても、ほとんど日本語を話すことはできない。もしかしたら、歌詞の意味はわからないかもしれない。でも、その歌を忘れないのは、自分が日本人であるという誇りを心の中でずっと抱き続けているからではないか。あるいは、生き別れとなった父の故郷である日本への望郷の思いもあるのではないか。
歌を口ずさむたびに、幼いころの父の記憶や、戦前のフィリピンでの幸せな生活、あるいは、戦争のつらい記憶を思い出すのだろう。その音色は、彼らの体に深く刻まれたままだ。
「国籍が認められなくて、とても悲しいです。どうか、日本の皆さん、国籍を認めてください。」と、Tさんは語る。
「愛国行進曲」。
これは、戦前、人々が日本国への忠誠を誓い、戦意を高揚させ、日本を愛するために作られた歌だ。平和になった今、日本人が国家への忠誠を誓う必要もなければ、戦意を抱くこともない。しかし、日本を愛すること。これに関して言えば、いつの時代も日本人は、母国を敬愛してやまなかっただろう。しかも、日本人なら、母国を愛する権利を認められてしかるべきだ。
だが、もしその権利がはく奪されてしまったら・・・そう考えると、心から母国を思い、愛せることができない。いくら昔の歌を諳んじることができても、国籍というアイデンティティが回復されなければ、日本人であるという心の拠り所を感じることはできないのだ。
記者会見が終わり、ホテルへと帰る車中のこと。Tさんは、私に、さらに「しょーしょー、しょじょうじ」と歌い、「証城寺の狸ばやし」や「高い山から谷底見れば」という民謡を教えてくれた。歌うときのTさんは、何だかいつも楽しそうだ。
日本から3000キロ離れたフィリピンに70年以上住む人間が、20年間日本で生きてきた1人の学生に対して、民謡を教える。なんだか不思議な構図だが、これこそ彼女が日本人であるという何よりの証なのではないかと感じた。
ホテルに到着し、2人に別れを告げた後、帰路に就く。目の見えるYさんとは、がっちり握手をして別れた。帰りの電車の中で、1日を振り返り、2人に再会できた喜びとともに、虚しさを感じた。
彼らが帰国する時は、特別な在留許可が下りている。なぜなら、彼らはフィリピンの国籍もなければ、日本の国籍もなく、パスポートを持たないからだ。来日するたびに、入管では一時間以上待たされ、今回も個室に連れて行かれて細かい審査を受けたそうだ。
今後、彼らは、国籍回復を求めるために、何回老体にムチをうち、来日しなければいけないのだろうか。今回の旅は、2泊3日だが、高齢の彼らにとって、体力の消耗は激しいはずだ。彼らと日本で会う回数が増えれば増えるほど、問題の解決は先延ばしにされてしまう。そう考えると、彼らと会うことを単純に喜んでいるわけにはいかない。
そんな矛盾を感じながら、都心を後にした。
昨年7月に来日し、私が会った日系人は16人。それから半年余り、16人の中で2人が国籍を認められ、今回お会いしたTさんとYさんの2人は認めれれず、却下された。今回は、控訴するための来日だ。国籍が認められた2人はきっと喜んでいることだろう。残りの12人はフィリピンで裁判の結果を待っている段階だ。
こうしてキーボードを叩いていると、12人のうち、数人の日系人の方の顔が思い出される。
Nさんは、残留孤児ではあるが、戦後、横田基地で働いていたため、日本に滞在した経験がある。16人の中で唯一日本語が達者で、タガログ語が話せない私によく話しかけてくれた。私と東京タワーに観光で一緒に登った時に、眼下に見える東京の街を指さしながら、昔の東京の様子を説明してくれた姿が懐かしい。
また、Sさんは、父親が愛媛出身だったそうだ。私が、かつて愛媛に住んでいたことを話すと、「愛媛は、日本地図のどこにあるのか?」とか「何が有名なのか?」と様々なことを尋ねてきてくれた。帰国する時に、お土産にと私が、ポンジュースをプレゼントし、「オレンジが有名なんですよ」と英語で言うと、嬉しそうにそれを鞄にしまってフィリピンに帰って行った。
私は、今でもSさんがたびたびかけてくれたこの言葉が忘れられない。
゛When will you come to Philippine ?”
最後にこの言葉を聞いたとき、私は住所が書かれたメモを彼女から受け取った。
”Maybe this holiday, or spring holiday.”
と私は答えたが、結局、約束を果たすことはできていない。年末には、クリスマスカードも届いた。
彼女は元気にしているだろうか?と思う。
私は、今までで2回、フィリピン日系残留孤児の方々とお会いし話すことはできた。しかし、具体的にそれぞれの戦中前後の深い話や体験は聞くことができなかった。個々の体験こそ、歴史を知り、戦争を考える上で重要である。もしかしたら、日系人の話を聞き、書き記すことは、問題解決の助けになる可能性もある。
実際には、そんな大それたことはできないかもしれない。
しかし、またいつか彼らに会うために、今度は私がフィリピンを訪れたい。
*フィリピン日系残留孤児とは・・・
1910年代、沖縄などから多くの日本人男子がフィリピンへと移住した。フィリピンでは、マニラ麻という繊維が大量に栽培され、軍艦のロープに使われ重宝されており、多くの日本人が労働者として働いていた。日本人男子の多くは、原住民の女子と結婚し、子供をもうけることとなる。
労働者が増えると、自然とその人たちを相手にした商店、飲食店、歓楽街、ホテルなど産業が生まれ、人口も増え、町が形成されていくのが常である。戦争を目前に控えた1940年代には、フィリピンの移民人口は1万人を越え、ダバオという地域では日本人街が作られるまでになった。フィリピンでは、豊かな日系人社会が営まれていたのだ。しかし、その繁栄は、戦争によって破壊されてしまう。
当時、アメリカの占領下にあったフィリピンに日本軍が、侵攻してくると、日系人は戦争協力を強制され、日本人社会はまるごと国家総動員体制に組み込まれる。中には、現地召集として無理やり日本軍に徴用されるものもいた。また、戦後は、日本人男子の多くが強制送還されてしまう。
軍隊に徴用されたにせよ、強制送還されたにせよ、日系人社会の多くの家庭が、一家の大黒柱を失い、母と小さな子供だけが残されてしまうこととなる。しかも、戦後、父が戦死したり、強制送還によって、身元不明になり、戦争以降、父と再会できていない子供たちがほとんどである。
フィリピン日系残留孤児とは、そのような日本人の父と原住民の母との間に生まれた子どもで、戦後63年たっても、フィリピンに残され、日本人としての国籍はおろか、戦後保障や権利などを受けることのできない人々の事を指す。
彼らは、戦後、反日感情の高いフィリピンで、日系人であることを隠し、改名し、隠れて生きてきたものが多い。現在フィリピンでは、そのような身元のわからない日系人の数が800人を越えるといわれている。子どもと言っても、戦後60年余りがたった今、彼らは70、80歳を超えた高齢である。
by matsuyama-nagoya
| 2009-04-01 04:18