2009年 04月 30日
立川 |
夕方、知らない番号から電話がかかってきた。
「突然すいません。私、山中坂の上映会でDVDをお借りした・・・」
電話の相手は、3週間前、山中坂の上映会でお会いした女性からであった。
何でもVTRを見て、一度湯の花トンネルに手を合わせに行きたくなったそうだ。しかし、肝心の場所がわかなない・・・。そこで、名刺を渡した私に電話をかけてきたようだ。多摩探検隊の撮影マップを教え、高尾駅からの行き方をお教えした。
「ありがとうございます。山中坂とか東大和の変電所は町中だから行くことができました。でも、湯の花トンネルは山奥と聞いていて、ずっと場所がわからなくてねー。一度花を持って行きたかったんです。助かりました」
そう言って、女性は電話を切った。上映会から2週間たつが、いまだにDVDに関する問い合わせがある。
忘れないうちに、上映会での思い出を書いておきたいと思う。
当日、立川の公民館に集まった人の数は、100人弱だっただろうか。お年を召した方が中心である。立川空襲を経験した方や遺族の方、そして平和団体を運営してる人など多くの人が参加していた。おそらく、もっとも若い参加者は平成生まれの私だっただろう。会の最中や、前後には、多くの方とお話をする機会に恵まれた。その中でも、Sさんについては、今でも印象に残っている。
Sさんは、戦争中、山中坂の近くに住んでいた。檜原村出身で、立川の女学校に通うために一人暮らしをしていたそうだ。
1945年4月4日。夜、立川が爆撃を受ける。
「家を飛び出ると、あたりは夜なのに真っ赤でした」
とSさんは、空襲の様子を振り返る。
空襲中、Sさんは逃げ、その途中で山中坂の防空壕にたどりついたという。
「防空壕に自分も入れると思いました。でも、それがすでに防空壕が満杯で・・・。入りたくても入れない状態でした。」
Sさんはやむなく、逃げることを選択した。夕闇が真っ赤に染まる中、Sさんは必死に逃げた。
「爆弾に当たってしまうのか。もう私はここで死ぬのか」
と、命も覚悟した。しかし、Sさんは何とか生き延び、無事に朝を迎えることができた。
「気がつくと朝でした。それで、山中坂のあたりに戻ってみると景色が違いました。」
「足元にやけに土が多くて・・・」
身振りを交えながらSさんは語る。その瞬間、Sさんは自分が昨晩入ろうとした防空壕が爆撃によって崩れ去ったことを知る。Sさんが見た土は崩れた防空壕の土だったのだ。
その防空壕に避難していた人は即死である。
ここまで語ったところで突然彼女は自らの戦争体験の話をやめた。
そして、戦後の話を始めた。
戦後、Sさんは『山中坂』という言葉を聞くたびに胸が締め付けられる思いがしてきたそうだ。慰霊祭は20回目を迎えるが、Sさんは初参加だ。慰霊祭の存在は知っていても、足が重く今まで来られなかった。
「私だけが生き延びたようで申し訳なくて・・・」
この言葉を言うと、Sさんの顔が徐々曇り始めた。
もちろん、防空壕に入りたくても入れなかったSさんに何の罪はない。むしろ、その瞬間を考えれば、入れなかったSさんが不運と言うこともできる。しかし、結果として、Sさんは防空壕に入れなかったがために助かった。きっと、Sさんは、自分が入ろうとしたまさのその時に、一瞬だけ見た防空壕の中の避難している人の顔や姿が脳裏に焼き付いて離れないのだろう。戦後、ずっとSさんは自責の念や贖罪の思いに駆られて生きてきたに違いない。
「戦争が終わってからは、なんとか人の役に立ちたいと思って・・・。」
そんな思いからSさんは看護師になり、定年まで勤め上げる。
「私はずっと人の役に立ちたいと思って、戦後生きてきました。」
そう語りながら、Sさんは大粒の涙をこぼした。その後、涙をこらえきれなくなり、用意してきたメモを読む言葉も声にならなくなっていった。
「ただ、今日ここにきて良かったです。若い人たちが、こうやって映像で戦争を残してくれて・・・。私も勇気づけられました。これからは、私こそが戦争を語り継いでいかなくてはいけないなと思いました」
Sさんは、最後、涙を流しながらも、そう言葉を残した。さん以外にも、多くの方が、戦争の記憶やDVDの感想を寄せてくれた。
私のちょうど前に座っていたある女性は、会が終わるや否や席を立ち、私に話しかけてきた。戦後生まれのその女性は、戦争を知らないそうだ。戦争については両親から聞くのみだったという。
「湯の花トンネルのVTRはとてもよかったわよ」と言う。
何でも、その女性は趣味が登山でよく高尾駅からバスに乗って陣場山に登山に行くそうだ。そのバスは、小仏行きだが、その途中に湯の花トンネルはある。
「陣場山へ行く途中に、いつもバスの運転手さんが湯の花トンネルの場所を教えてくれるのよ。『ここで、昔戦争に関して悲劇があっんですよ』って。でも、そこでバスを降りたこともないし、それ以上のことを知る機会もなくてねー」
「でも、今回ビデオを見て、昔あった悲劇を知ることができてよかったです。次に、陣場山へ行くときは、途中で湯の花トンネルで降りて、花を手向けたいと思います」
その女性はそう言った。ついでではあるが、立川空襲の感想も聞いてみた。すると、意外な反応が返ってきた。
「私は、直接は戦争を知らないんだけどね・・・。実は、兄を戦争で亡くしてるんです」
戦時中、お兄さんは赤ちゃんで、両親と立川で暮らしていた。そのころは、まだその女性はこの世に生を受けていない。立川空襲で、お兄さんとご両親は、山中坂とは違う防空壕に隠れた。そこまでは、よかった。しかし、防空壕の中は、温度も高く酸素も薄い。人も多く、寿司詰め状態だった。そんな中、幼いお兄さんは、お母さんに抱かれていた。よく朝、気がつくと、赤ちゃんは、お母さんの腕に抱かれたまま、圧死してしまったそうだ。
「私は戦後に生まれて、この話は母から聞かされたんです。結局、会えなかったんで、兄と言っていいのかわからないんですけどね・・・。今日ビデオを見ながら、兄もこういう風に死んでいったのかな、と思ってね」
決して会えなかった兄妹。それまで、気丈に話していた女性だが、気がつくと目に涙が溜まっていた。
「ただ、やっぱり戦争はいけないなって。ビデオを見て、そう思いましたよ。今日は、本当にありがとうございました。これからも頑張って下さいね」
女性はそう話して、帰っていった。
山中坂に入れなかったがために助かり、思い腰をあげて慰霊祭に参加した人。決して会うことはできなかった、亡き兄を思いビデオを見に来た人。ほかにも、多くの戦争体験者や遺族の方に上映会では会った。中には、いまだに立川空襲のことがトラウマとなり、逃げ惑う悪夢にうなされる人もいた。
今回、私は上映会にVTRを製作した多摩探検隊の一員として参加した。本当のところを言えば、私は製作したディレクターでもないし、プロデューサーでもない。そんな私に何ができるだろうか。そんな思いを抱き参加した。
だが、今では今回参加してよかったと思っている。それは、多摩探検隊という番組が実際に地域に貢献している現場を生で見ることができたからだ。自分が制作したVTRでなくても、VTRを見た人が素直に喜んでくれて、「ごくろうさま」や「ありがとう」や「頑張ってね」という言葉をくれることは、素直に嬉しい。
また、それだけこの戦争企画を続けていかなくてはいけない責任も大きい。
我々は、戦争を体験された方が生きている限り、カメラを向けて、思いや体験を語ってもらい、伝え続けなければいけないのだろう。たとえ、それが過去の悲しい思いをほじくり返すことになっても、「ごくろうさま」や「がんばってね」という言葉をもらえる限り・・・。
上映会の帰りに、山中坂の慰霊碑に行った。慰霊碑の前には、桜の木が植えられていた。
線香を焚いて、手を合わせる。
64年前のその日、無辜の人々の命が空襲によって奪われた。きっと、64年前も桜の花が咲き誇っていたことだろう。
しかし、綺麗な桜とは裏腹に罪のない人々の命が散っていった。
この悲劇を繰り返してはいけない。だから、我々は伝えていく必要がある。
そう心に誓って、帰路に就いた。
「突然すいません。私、山中坂の上映会でDVDをお借りした・・・」
電話の相手は、3週間前、山中坂の上映会でお会いした女性からであった。
何でもVTRを見て、一度湯の花トンネルに手を合わせに行きたくなったそうだ。しかし、肝心の場所がわかなない・・・。そこで、名刺を渡した私に電話をかけてきたようだ。多摩探検隊の撮影マップを教え、高尾駅からの行き方をお教えした。
「ありがとうございます。山中坂とか東大和の変電所は町中だから行くことができました。でも、湯の花トンネルは山奥と聞いていて、ずっと場所がわからなくてねー。一度花を持って行きたかったんです。助かりました」
そう言って、女性は電話を切った。上映会から2週間たつが、いまだにDVDに関する問い合わせがある。
忘れないうちに、上映会での思い出を書いておきたいと思う。
当日、立川の公民館に集まった人の数は、100人弱だっただろうか。お年を召した方が中心である。立川空襲を経験した方や遺族の方、そして平和団体を運営してる人など多くの人が参加していた。おそらく、もっとも若い参加者は平成生まれの私だっただろう。会の最中や、前後には、多くの方とお話をする機会に恵まれた。その中でも、Sさんについては、今でも印象に残っている。
Sさんは、戦争中、山中坂の近くに住んでいた。檜原村出身で、立川の女学校に通うために一人暮らしをしていたそうだ。
1945年4月4日。夜、立川が爆撃を受ける。
「家を飛び出ると、あたりは夜なのに真っ赤でした」
とSさんは、空襲の様子を振り返る。
空襲中、Sさんは逃げ、その途中で山中坂の防空壕にたどりついたという。
「防空壕に自分も入れると思いました。でも、それがすでに防空壕が満杯で・・・。入りたくても入れない状態でした。」
Sさんはやむなく、逃げることを選択した。夕闇が真っ赤に染まる中、Sさんは必死に逃げた。
「爆弾に当たってしまうのか。もう私はここで死ぬのか」
と、命も覚悟した。しかし、Sさんは何とか生き延び、無事に朝を迎えることができた。
「気がつくと朝でした。それで、山中坂のあたりに戻ってみると景色が違いました。」
「足元にやけに土が多くて・・・」
身振りを交えながらSさんは語る。その瞬間、Sさんは自分が昨晩入ろうとした防空壕が爆撃によって崩れ去ったことを知る。Sさんが見た土は崩れた防空壕の土だったのだ。
その防空壕に避難していた人は即死である。
ここまで語ったところで突然彼女は自らの戦争体験の話をやめた。
そして、戦後の話を始めた。
戦後、Sさんは『山中坂』という言葉を聞くたびに胸が締め付けられる思いがしてきたそうだ。慰霊祭は20回目を迎えるが、Sさんは初参加だ。慰霊祭の存在は知っていても、足が重く今まで来られなかった。
「私だけが生き延びたようで申し訳なくて・・・」
この言葉を言うと、Sさんの顔が徐々曇り始めた。
もちろん、防空壕に入りたくても入れなかったSさんに何の罪はない。むしろ、その瞬間を考えれば、入れなかったSさんが不運と言うこともできる。しかし、結果として、Sさんは防空壕に入れなかったがために助かった。きっと、Sさんは、自分が入ろうとしたまさのその時に、一瞬だけ見た防空壕の中の避難している人の顔や姿が脳裏に焼き付いて離れないのだろう。戦後、ずっとSさんは自責の念や贖罪の思いに駆られて生きてきたに違いない。
「戦争が終わってからは、なんとか人の役に立ちたいと思って・・・。」
そんな思いからSさんは看護師になり、定年まで勤め上げる。
「私はずっと人の役に立ちたいと思って、戦後生きてきました。」
そう語りながら、Sさんは大粒の涙をこぼした。その後、涙をこらえきれなくなり、用意してきたメモを読む言葉も声にならなくなっていった。
「ただ、今日ここにきて良かったです。若い人たちが、こうやって映像で戦争を残してくれて・・・。私も勇気づけられました。これからは、私こそが戦争を語り継いでいかなくてはいけないなと思いました」
Sさんは、最後、涙を流しながらも、そう言葉を残した。さん以外にも、多くの方が、戦争の記憶やDVDの感想を寄せてくれた。
私のちょうど前に座っていたある女性は、会が終わるや否や席を立ち、私に話しかけてきた。戦後生まれのその女性は、戦争を知らないそうだ。戦争については両親から聞くのみだったという。
「湯の花トンネルのVTRはとてもよかったわよ」と言う。
何でも、その女性は趣味が登山でよく高尾駅からバスに乗って陣場山に登山に行くそうだ。そのバスは、小仏行きだが、その途中に湯の花トンネルはある。
「陣場山へ行く途中に、いつもバスの運転手さんが湯の花トンネルの場所を教えてくれるのよ。『ここで、昔戦争に関して悲劇があっんですよ』って。でも、そこでバスを降りたこともないし、それ以上のことを知る機会もなくてねー」
「でも、今回ビデオを見て、昔あった悲劇を知ることができてよかったです。次に、陣場山へ行くときは、途中で湯の花トンネルで降りて、花を手向けたいと思います」
その女性はそう言った。ついでではあるが、立川空襲の感想も聞いてみた。すると、意外な反応が返ってきた。
「私は、直接は戦争を知らないんだけどね・・・。実は、兄を戦争で亡くしてるんです」
戦時中、お兄さんは赤ちゃんで、両親と立川で暮らしていた。そのころは、まだその女性はこの世に生を受けていない。立川空襲で、お兄さんとご両親は、山中坂とは違う防空壕に隠れた。そこまでは、よかった。しかし、防空壕の中は、温度も高く酸素も薄い。人も多く、寿司詰め状態だった。そんな中、幼いお兄さんは、お母さんに抱かれていた。よく朝、気がつくと、赤ちゃんは、お母さんの腕に抱かれたまま、圧死してしまったそうだ。
「私は戦後に生まれて、この話は母から聞かされたんです。結局、会えなかったんで、兄と言っていいのかわからないんですけどね・・・。今日ビデオを見ながら、兄もこういう風に死んでいったのかな、と思ってね」
決して会えなかった兄妹。それまで、気丈に話していた女性だが、気がつくと目に涙が溜まっていた。
「ただ、やっぱり戦争はいけないなって。ビデオを見て、そう思いましたよ。今日は、本当にありがとうございました。これからも頑張って下さいね」
女性はそう話して、帰っていった。
山中坂に入れなかったがために助かり、思い腰をあげて慰霊祭に参加した人。決して会うことはできなかった、亡き兄を思いビデオを見に来た人。ほかにも、多くの戦争体験者や遺族の方に上映会では会った。中には、いまだに立川空襲のことがトラウマとなり、逃げ惑う悪夢にうなされる人もいた。
今回、私は上映会にVTRを製作した多摩探検隊の一員として参加した。本当のところを言えば、私は製作したディレクターでもないし、プロデューサーでもない。そんな私に何ができるだろうか。そんな思いを抱き参加した。
だが、今では今回参加してよかったと思っている。それは、多摩探検隊という番組が実際に地域に貢献している現場を生で見ることができたからだ。自分が制作したVTRでなくても、VTRを見た人が素直に喜んでくれて、「ごくろうさま」や「ありがとう」や「頑張ってね」という言葉をくれることは、素直に嬉しい。
また、それだけこの戦争企画を続けていかなくてはいけない責任も大きい。
我々は、戦争を体験された方が生きている限り、カメラを向けて、思いや体験を語ってもらい、伝え続けなければいけないのだろう。たとえ、それが過去の悲しい思いをほじくり返すことになっても、「ごくろうさま」や「がんばってね」という言葉をもらえる限り・・・。
上映会の帰りに、山中坂の慰霊碑に行った。慰霊碑の前には、桜の木が植えられていた。
線香を焚いて、手を合わせる。
64年前のその日、無辜の人々の命が空襲によって奪われた。きっと、64年前も桜の花が咲き誇っていたことだろう。
しかし、綺麗な桜とは裏腹に罪のない人々の命が散っていった。
この悲劇を繰り返してはいけない。だから、我々は伝えていく必要がある。
そう心に誓って、帰路に就いた。
by matsuyama-nagoya
| 2009-04-30 03:22