2009年 09月 27日
夫婦 |
以前、小倉で西山太吉氏を取材した帰り道のことだ。
「優しそうな奥さんでしたね・・・」
「奥さんの笑顔、すてきでしたね・・・」
「奥さんにも話を聞けばよかった・・・」
取材が終わった興奮と安堵感で冷めやらぬ先輩と私は、数時間の取材を振り返りながら、そんな言葉を交わした記憶がある。それは単なる後悔と言うこともできない、感慨にも似たような微妙な気持ちだった。
取材前、私と先輩は、西山氏が住むマンションの一室を前に、これでもかというほど緊張していた。何しろ、ジャーナリズム史に渾然と名前を残す人に会うのである。19年の私の人生の中で、ある意味、これほどの「有名人」に会ったことはなかった。かつて取材に来た新聞記者を「勉強不足だ!」と一喝し、追い返したこともあるという話を聞いていただけに、余計に緊張してしまう。何しろ学生の身なのだ。追い返されたらどうしようか。心配は増すばかりである。
インターフォンを押す。中から出てきたのが、白髪交じりの髪をした女性。西山氏の奥さんだった。
「遠いところをご苦労さまです。中へどうぞ。」
私たちの自己紹介もそこそこに、そう言って奥さんは私たちを招き入れてくれた。顔に深く刻まれた皺、そして、物腰が柔らかなその姿は、失礼かもしれないが、ちょうど私と同じような年のお孫さんがいそうな優しい「おばあちゃん」の雰囲気を醸し出していた。
マンションは台所とリビング、そして書斎と寝室しかないような決して広くはない部屋だ。
「主人はちょっと出かけています。すぐ戻ると思いますので、しばらくお待ち下さい」
奥さんはそう言って、私たちを西山氏の書斎であろう部屋に通してくれた。西山氏本人といきなり対する覚悟を決めていた私たちにとって、奥さんとの出会いは張りつめた気持ちに一瞬の緩みをもたらしてくれた。
そうこうしているうちに西山氏が帰宅し、取材が始まる。西山氏は、70歳を過ぎた今でも、眼光が鋭い。まるで、話す相手の心を見透かそうとしているかのようだ。その眼差しで対象をくぎ付けにし、話す様子はいかにも敏腕記者という感じだった。
予定より大きくの伸びた2時間の取材は、無事に終わった。西山氏にお聞きしたいことはすべて聞くことができた。満足いく取材だったと思う。その後、西山氏に代わって、炊事をしたにも関わらず奥さんが丁寧にも玄関まで送ってくれた。
「またいつでもいらして下さいね。何かお聞きしたことがあればあればご連絡ください。」
奥さんの言葉が、終始緊張しっぱなしであった私たちに安らぎをもたらしてくれたのは言うまでもない。
そして、マンションを後にし、帰るとき、ふと取材を振り返ると出たのが冒頭の言葉である。
「『情を通じて』と起訴状に書かれたとき、西山さんはどう思われましたか」
私たちはそんなことを聞いたと思う。そのとき、確か奥さんは台所にいたはずだ。もしかしたら、狭いマンションの一室の書斎で行われていた取材の様子は、奥さんの耳に入っていたかもしれない。
奥さんは、私たちの言葉を聞いてどう思ったのだろうか。過去の思い出を蒸し返してしまったのではないだろうか。それでも、奥さんは帰り際、私たちに労いの言葉をかけてくれて、笑顔で優しく送り出してくれた。もちろん、その笑みは、客人に対する社交辞令的なものかもしれなし、いろんな悲しい思いも内包されているかもしれない。ただ、西山氏本人が厳しく、鋭い表情をしていただけに、対照的に、その人の優しい笑顔は印象に残った。
きっと、奥さんは辛く、苦しく、悲しい思いをしたと思う。夫は、かつて日本中を揺るがすスキャンダルの主人公として騒がれた。「情を通じた」という烙印を押され、社会そして、国家から抹殺された。そんな「過去」も「現在」まで続くのだ。新聞で密約の記事が載ることもあるし、記者が訪ねてくることもある。その度ごとに、昔の記憶が奥さんには呼び起されてしまうに違いない。今日だって、若い学生が訪ねてきたのだ。
「過去」をいかにして乗り越えて、「現在」に至るのか。「乗り越えた」という言葉自体がおこがましいものかもしれない。でも、一新聞記者の妻だった人が優しい「おばちゃん」になるまでの歴史、そして、かつては悲しい表情をしていたであろう彼女がその笑顔を取り戻した過程に興味が湧いた。
奥さんはどうして離婚しなかったのだろうか。どうして夫婦でいられたのか。西山さんのマンションを後にし、小倉駅に向かうバスの中で、そんなことを思った。
それから、1年と数か月が経った。「そんなことまで聞くのは無理でしょ」という怠惰な言い訳で自分を納得させ、ずっと疑問を頭の片隅に放置していた。今、政権交代が実現し、密約が世間で再び注目されている。
そんなとき、「G2」という雑誌を買った。今、ノンフィクションという文学のジャンルは、冬の時代と呼ばれている(らしい)。そんな低迷するノンフィクションという世界に革命を起こそうと、講談社が新たに刊行したノンフィクション雑誌が、「G2」である。
目次をめくって、たまたま、1つの記事に目が停まった。
「沖縄密約事件 西山太吉の妻 37年目の初告白 それでも離婚しなかった理由」
である。正直なところ、驚いた。やられた、すげーという感じだった。自分がかつて抱いた疑問が解けるかもしれない文章が載っているということに驚いた。よく奥さんが取材に応じたものだと思う。そして、あの奥さんの夫、太吉さんは取材を許したのだろうかとも。
内容は、当時の密約事件を時系列で追いながら、その合間に、奥さんの肉声や彼女が事件当時から毎日綴っている日記をもとに構成されている。新聞記者ではなく、夫としての西山太吉。そして、事件後、夫と妻の37年の歴史が書かれている。
普通、男というものは、仕事場という外で見せる顔と、家庭という内で見せる顔の2種類があると思う。でも、こと西山太吉に限っては、外と内で見せる顔が一緒だったようだ。無愛想で、目つきが鋭く、仕事一直線で、無口で家庭を顧みない。
だから、西山さんは、奥さんに何も語らなかった。事件のことも、真実も、悩みや愚痴をこぼすこともなかった。旦那は、取材のため、仕事のため、ジャーナリズムという大義をふりかざして、妻である自分を裏切って、不倫関係にあったかもしれないのに。
「主人は、聞きたかった言葉を最後の最後まで口にしませんでした。『すまなかった』とか『ありがとう』どちらかだけでも、言って欲しかったのに。・・・」
目の前に、当事者がいて、しかも、それは最も信頼できる夫であるのに、何も語らない。事件について知ることができるのは、世間の噂や新聞や週刊誌の記事からだけである。起訴状の「情を通じて」という言葉を知った時は、
「なんて汚い言葉を使うのだろう。許せないと思い、心が凍りそうでした」
と感じたそうだ。
やがて、奥さんは日記で別れを意識する言葉を綴るようになる。
「夫婦間の絆といったものは、決して強まったわけでもなく、ただ同居しているだけにすぎない様な状態。愛もない。そして、憎しみもない」「私たちは、このまま夫婦でいていいのだろうか。」
不信感、悲しみ、怒り、葛藤、不安・・・。どれだけ多くの言葉を使っても、当時の奥さんの気持ちを表現することは難しい。
でも、結果的に離婚はしなかった。西山さんがギャンブルに溺れても、本人から「離婚しよう」と言われても、裁判の結果が有罪でも、別居状態に陥っても、よりは戻した。いや、戻った。
「このまま別れたら、主人はだめになる。国からも、社会からも、新聞社からも捨てられて、その上私が捨てたらと思うと・・・。」
「心の底のどこかに、これではあまりにもかわいそうすぎるという気持ちがあったことも確かでした。」
別れる、別れないという葛藤を通り越した、どこか憐みにも似た感情である。
それから、数年後の2000年、西山夫妻に転機が訪れる。アメリカ公文書館から密約の存在を示す資料が見つかったのだ。これをきっかけに、西山さん本人にも変化が訪れ、夫婦のあり方も変容していく。
それまで、沈んだように無表情で感情をあらわにしなかった西山さんが、感情を表に出すようになる。それで、「コンチクショウ」と裁判を起こした。そんな前向きな夫を見て、奥さんの心境にも変化が訪れる。
「最後まで、この人の面倒をみなきゃ。この人をちゃんと死なせなきゃ。」
そう考えると、不思議と「別れる」という選択肢自体が、胸の奥に沈んでいったそうだ。それまでは、別れる、別れないという選択の中で揺れながらも、結局現状維持が精いっぱいだった。しかし、密約という存在が明らかになって以降、「奇跡が起きた」と不思議なことに前向きになれたそうだ。
裁判を起こした西山さんだが、その後、さらに密約のことを本としてまとめ、出版する。新聞記者・西山太吉の復活である。そのあと押しをしたのが、「本なんてすぐには書けないんだから、準備しておいて」と言った奥さんだった。
「本を書かないとあの人が死んだあとに何も残らない。あの人が新聞記者だった証というか、生きてきた意味がなくなってしまうんじゃないかと。」
こうして、西山太吉は本を出版する。事件後、夫婦が過ごしてきた歴史の結実が本であるといっても過言ではない。そのときの、できあがあった本を前にした2人の会話が、いい。
「パパ、何か言うことない?」
すると、太吉さんはすぐ何かを察し、でも、渋り切った顔で言う。
「あり・・・」
「がと」
それまで通ってきた道は並大抵のものではない。過酷すぎた。妻としては、あの頑固で意気地な夫が結婚して初めて感謝の言葉を口にするのである。でも、夫は照れ臭いのだ。実に、感動的だと思う。
最後に、奥さんは、事件後37年間の夫婦生活をまとめて、「夫婦とな何か」という問いにこう語る。
「それにしても、なぜ離婚しなかったのか。もう、とっくにサヨナラしていていいはずなんですけどねー。うーん、好きというのとは違うんですよ。でも、なんで一緒にいるのかしらね。きっと、死ぬまでの課題ね。」
記事を読み終わって、妙に納得させられたような、でも、何となく腑に落ちない気がした。
気づいたら37年というのは理解できる。でも、そこにもっと明らかな理由や根拠があってもおかしくはないのではないか。それに、夫婦という関係性の中に「愛しい」とか「恋しい」というような甘美な言葉が少しはあってもいいような気がするのだ。少なくとも、これから一生を共にする人との出会いに胸をときめかせているハタチの人間は小説やドラマのように、「夫婦」という言葉に崇高な理想や意義づけを求めてしまう。どうも釈然としない気持ちであった。
そこで、お見舞いに来た祖母に聞いてみた。3年前に夫を亡くした祖母は、それまで41年間祖父と連れ添って生きてきた。
「本を読んでいて疑問に思ったんだけど、『夫婦』って何なの?」
我ながら突拍子もない質問だが、いぶかりながらも祖母は答えてくれた。
「そうね、惰性のようなものねー。いつの間にか、お互いが人生を生き抜くという目的のために同志になってるのよ。決して、愛とかそういうものじゃなくて。」
西山夫妻が乗り越えてきた壁に比べれば、私の祖父母の壁は低いものだったと思う。同じ夫婦と言うだけで一緒にしてはいないとも思う。でも、たとえ過程や形は違っても2組の夫婦の話を聞いて、それまでの疑問が氷解した。
「惰性」
つまるところ夫婦とはそういうものなのだと思う。決して、そこに深い意味であったり、甘美な理想を求めてはいけないのではないのだろう。
そして、ただ一瞬、夫婦と言う言葉に漠然とした形を求めるのならば、「惰性」が進まなくなったとき、つまり、夫婦に死別という永遠の別れが訪れるときなのではないかと思う。
かつて、祖父が逝ったとき、祖母は誰よりも悲しみ、塞ぎこんでいた。私の祖父は頑固で、「愛」という言葉を口にするような人ではなかったし、祖母の言葉にも「ああ」とか「うん」としか答えない人だった。決して、おしどり夫婦と呼ぶことはできなかったような気がする。晩年は、寝たきり状態で、10年近くも介護していた。でも、祖母にとって、祖父の喪失は堪らなく辛かったのだと思う。
惰性という名のもと日々何となく過ごしてきた人間同士でも、その別れによって、相手の不在を思い出し、嘆く時、夫婦という言葉に初めて、眼前の形を与えれられるのではないだろうか。そう思う。
どこかの作家が亡き妻を慕って、「そうか、もう君はいないのか」という言葉を発したように。
西山さんの奥さんが、夫婦という問いに対して「死ぬまでの課題ね」って言っていたように。
その終局を迎えるまで、西山太吉さんと啓子さんは今日も夫婦という名の物語を紡いでいく。
「優しそうな奥さんでしたね・・・」
「奥さんの笑顔、すてきでしたね・・・」
「奥さんにも話を聞けばよかった・・・」
取材が終わった興奮と安堵感で冷めやらぬ先輩と私は、数時間の取材を振り返りながら、そんな言葉を交わした記憶がある。それは単なる後悔と言うこともできない、感慨にも似たような微妙な気持ちだった。
取材前、私と先輩は、西山氏が住むマンションの一室を前に、これでもかというほど緊張していた。何しろ、ジャーナリズム史に渾然と名前を残す人に会うのである。19年の私の人生の中で、ある意味、これほどの「有名人」に会ったことはなかった。かつて取材に来た新聞記者を「勉強不足だ!」と一喝し、追い返したこともあるという話を聞いていただけに、余計に緊張してしまう。何しろ学生の身なのだ。追い返されたらどうしようか。心配は増すばかりである。
インターフォンを押す。中から出てきたのが、白髪交じりの髪をした女性。西山氏の奥さんだった。
「遠いところをご苦労さまです。中へどうぞ。」
私たちの自己紹介もそこそこに、そう言って奥さんは私たちを招き入れてくれた。顔に深く刻まれた皺、そして、物腰が柔らかなその姿は、失礼かもしれないが、ちょうど私と同じような年のお孫さんがいそうな優しい「おばあちゃん」の雰囲気を醸し出していた。
マンションは台所とリビング、そして書斎と寝室しかないような決して広くはない部屋だ。
「主人はちょっと出かけています。すぐ戻ると思いますので、しばらくお待ち下さい」
奥さんはそう言って、私たちを西山氏の書斎であろう部屋に通してくれた。西山氏本人といきなり対する覚悟を決めていた私たちにとって、奥さんとの出会いは張りつめた気持ちに一瞬の緩みをもたらしてくれた。
そうこうしているうちに西山氏が帰宅し、取材が始まる。西山氏は、70歳を過ぎた今でも、眼光が鋭い。まるで、話す相手の心を見透かそうとしているかのようだ。その眼差しで対象をくぎ付けにし、話す様子はいかにも敏腕記者という感じだった。
予定より大きくの伸びた2時間の取材は、無事に終わった。西山氏にお聞きしたいことはすべて聞くことができた。満足いく取材だったと思う。その後、西山氏に代わって、炊事をしたにも関わらず奥さんが丁寧にも玄関まで送ってくれた。
「またいつでもいらして下さいね。何かお聞きしたことがあればあればご連絡ください。」
奥さんの言葉が、終始緊張しっぱなしであった私たちに安らぎをもたらしてくれたのは言うまでもない。
そして、マンションを後にし、帰るとき、ふと取材を振り返ると出たのが冒頭の言葉である。
「『情を通じて』と起訴状に書かれたとき、西山さんはどう思われましたか」
私たちはそんなことを聞いたと思う。そのとき、確か奥さんは台所にいたはずだ。もしかしたら、狭いマンションの一室の書斎で行われていた取材の様子は、奥さんの耳に入っていたかもしれない。
奥さんは、私たちの言葉を聞いてどう思ったのだろうか。過去の思い出を蒸し返してしまったのではないだろうか。それでも、奥さんは帰り際、私たちに労いの言葉をかけてくれて、笑顔で優しく送り出してくれた。もちろん、その笑みは、客人に対する社交辞令的なものかもしれなし、いろんな悲しい思いも内包されているかもしれない。ただ、西山氏本人が厳しく、鋭い表情をしていただけに、対照的に、その人の優しい笑顔は印象に残った。
きっと、奥さんは辛く、苦しく、悲しい思いをしたと思う。夫は、かつて日本中を揺るがすスキャンダルの主人公として騒がれた。「情を通じた」という烙印を押され、社会そして、国家から抹殺された。そんな「過去」も「現在」まで続くのだ。新聞で密約の記事が載ることもあるし、記者が訪ねてくることもある。その度ごとに、昔の記憶が奥さんには呼び起されてしまうに違いない。今日だって、若い学生が訪ねてきたのだ。
「過去」をいかにして乗り越えて、「現在」に至るのか。「乗り越えた」という言葉自体がおこがましいものかもしれない。でも、一新聞記者の妻だった人が優しい「おばちゃん」になるまでの歴史、そして、かつては悲しい表情をしていたであろう彼女がその笑顔を取り戻した過程に興味が湧いた。
奥さんはどうして離婚しなかったのだろうか。どうして夫婦でいられたのか。西山さんのマンションを後にし、小倉駅に向かうバスの中で、そんなことを思った。
それから、1年と数か月が経った。「そんなことまで聞くのは無理でしょ」という怠惰な言い訳で自分を納得させ、ずっと疑問を頭の片隅に放置していた。今、政権交代が実現し、密約が世間で再び注目されている。
そんなとき、「G2」という雑誌を買った。今、ノンフィクションという文学のジャンルは、冬の時代と呼ばれている(らしい)。そんな低迷するノンフィクションという世界に革命を起こそうと、講談社が新たに刊行したノンフィクション雑誌が、「G2」である。
目次をめくって、たまたま、1つの記事に目が停まった。
「沖縄密約事件 西山太吉の妻 37年目の初告白 それでも離婚しなかった理由」
である。正直なところ、驚いた。やられた、すげーという感じだった。自分がかつて抱いた疑問が解けるかもしれない文章が載っているということに驚いた。よく奥さんが取材に応じたものだと思う。そして、あの奥さんの夫、太吉さんは取材を許したのだろうかとも。
内容は、当時の密約事件を時系列で追いながら、その合間に、奥さんの肉声や彼女が事件当時から毎日綴っている日記をもとに構成されている。新聞記者ではなく、夫としての西山太吉。そして、事件後、夫と妻の37年の歴史が書かれている。
普通、男というものは、仕事場という外で見せる顔と、家庭という内で見せる顔の2種類があると思う。でも、こと西山太吉に限っては、外と内で見せる顔が一緒だったようだ。無愛想で、目つきが鋭く、仕事一直線で、無口で家庭を顧みない。
だから、西山さんは、奥さんに何も語らなかった。事件のことも、真実も、悩みや愚痴をこぼすこともなかった。旦那は、取材のため、仕事のため、ジャーナリズムという大義をふりかざして、妻である自分を裏切って、不倫関係にあったかもしれないのに。
「主人は、聞きたかった言葉を最後の最後まで口にしませんでした。『すまなかった』とか『ありがとう』どちらかだけでも、言って欲しかったのに。・・・」
目の前に、当事者がいて、しかも、それは最も信頼できる夫であるのに、何も語らない。事件について知ることができるのは、世間の噂や新聞や週刊誌の記事からだけである。起訴状の「情を通じて」という言葉を知った時は、
「なんて汚い言葉を使うのだろう。許せないと思い、心が凍りそうでした」
と感じたそうだ。
やがて、奥さんは日記で別れを意識する言葉を綴るようになる。
「夫婦間の絆といったものは、決して強まったわけでもなく、ただ同居しているだけにすぎない様な状態。愛もない。そして、憎しみもない」「私たちは、このまま夫婦でいていいのだろうか。」
不信感、悲しみ、怒り、葛藤、不安・・・。どれだけ多くの言葉を使っても、当時の奥さんの気持ちを表現することは難しい。
でも、結果的に離婚はしなかった。西山さんがギャンブルに溺れても、本人から「離婚しよう」と言われても、裁判の結果が有罪でも、別居状態に陥っても、よりは戻した。いや、戻った。
「このまま別れたら、主人はだめになる。国からも、社会からも、新聞社からも捨てられて、その上私が捨てたらと思うと・・・。」
「心の底のどこかに、これではあまりにもかわいそうすぎるという気持ちがあったことも確かでした。」
別れる、別れないという葛藤を通り越した、どこか憐みにも似た感情である。
それから、数年後の2000年、西山夫妻に転機が訪れる。アメリカ公文書館から密約の存在を示す資料が見つかったのだ。これをきっかけに、西山さん本人にも変化が訪れ、夫婦のあり方も変容していく。
それまで、沈んだように無表情で感情をあらわにしなかった西山さんが、感情を表に出すようになる。それで、「コンチクショウ」と裁判を起こした。そんな前向きな夫を見て、奥さんの心境にも変化が訪れる。
「最後まで、この人の面倒をみなきゃ。この人をちゃんと死なせなきゃ。」
そう考えると、不思議と「別れる」という選択肢自体が、胸の奥に沈んでいったそうだ。それまでは、別れる、別れないという選択の中で揺れながらも、結局現状維持が精いっぱいだった。しかし、密約という存在が明らかになって以降、「奇跡が起きた」と不思議なことに前向きになれたそうだ。
裁判を起こした西山さんだが、その後、さらに密約のことを本としてまとめ、出版する。新聞記者・西山太吉の復活である。そのあと押しをしたのが、「本なんてすぐには書けないんだから、準備しておいて」と言った奥さんだった。
「本を書かないとあの人が死んだあとに何も残らない。あの人が新聞記者だった証というか、生きてきた意味がなくなってしまうんじゃないかと。」
こうして、西山太吉は本を出版する。事件後、夫婦が過ごしてきた歴史の結実が本であるといっても過言ではない。そのときの、できあがあった本を前にした2人の会話が、いい。
「パパ、何か言うことない?」
すると、太吉さんはすぐ何かを察し、でも、渋り切った顔で言う。
「あり・・・」
「がと」
それまで通ってきた道は並大抵のものではない。過酷すぎた。妻としては、あの頑固で意気地な夫が結婚して初めて感謝の言葉を口にするのである。でも、夫は照れ臭いのだ。実に、感動的だと思う。
最後に、奥さんは、事件後37年間の夫婦生活をまとめて、「夫婦とな何か」という問いにこう語る。
「それにしても、なぜ離婚しなかったのか。もう、とっくにサヨナラしていていいはずなんですけどねー。うーん、好きというのとは違うんですよ。でも、なんで一緒にいるのかしらね。きっと、死ぬまでの課題ね。」
記事を読み終わって、妙に納得させられたような、でも、何となく腑に落ちない気がした。
気づいたら37年というのは理解できる。でも、そこにもっと明らかな理由や根拠があってもおかしくはないのではないか。それに、夫婦という関係性の中に「愛しい」とか「恋しい」というような甘美な言葉が少しはあってもいいような気がするのだ。少なくとも、これから一生を共にする人との出会いに胸をときめかせているハタチの人間は小説やドラマのように、「夫婦」という言葉に崇高な理想や意義づけを求めてしまう。どうも釈然としない気持ちであった。
そこで、お見舞いに来た祖母に聞いてみた。3年前に夫を亡くした祖母は、それまで41年間祖父と連れ添って生きてきた。
「本を読んでいて疑問に思ったんだけど、『夫婦』って何なの?」
我ながら突拍子もない質問だが、いぶかりながらも祖母は答えてくれた。
「そうね、惰性のようなものねー。いつの間にか、お互いが人生を生き抜くという目的のために同志になってるのよ。決して、愛とかそういうものじゃなくて。」
西山夫妻が乗り越えてきた壁に比べれば、私の祖父母の壁は低いものだったと思う。同じ夫婦と言うだけで一緒にしてはいないとも思う。でも、たとえ過程や形は違っても2組の夫婦の話を聞いて、それまでの疑問が氷解した。
「惰性」
つまるところ夫婦とはそういうものなのだと思う。決して、そこに深い意味であったり、甘美な理想を求めてはいけないのではないのだろう。
そして、ただ一瞬、夫婦と言う言葉に漠然とした形を求めるのならば、「惰性」が進まなくなったとき、つまり、夫婦に死別という永遠の別れが訪れるときなのではないかと思う。
かつて、祖父が逝ったとき、祖母は誰よりも悲しみ、塞ぎこんでいた。私の祖父は頑固で、「愛」という言葉を口にするような人ではなかったし、祖母の言葉にも「ああ」とか「うん」としか答えない人だった。決して、おしどり夫婦と呼ぶことはできなかったような気がする。晩年は、寝たきり状態で、10年近くも介護していた。でも、祖母にとって、祖父の喪失は堪らなく辛かったのだと思う。
惰性という名のもと日々何となく過ごしてきた人間同士でも、その別れによって、相手の不在を思い出し、嘆く時、夫婦という言葉に初めて、眼前の形を与えれられるのではないだろうか。そう思う。
どこかの作家が亡き妻を慕って、「そうか、もう君はいないのか」という言葉を発したように。
西山さんの奥さんが、夫婦という問いに対して「死ぬまでの課題ね」って言っていたように。
その終局を迎えるまで、西山太吉さんと啓子さんは今日も夫婦という名の物語を紡いでいく。
by matsuyama-nagoya
| 2009-09-27 06:01