2010年 09月 01日
日常と非日常 |
先日、横田基地で開催された友好祭に行った。
ふだんは決して入ることができない、基地に入ることができない唯一の機会である。
基地までは、一番近い牛浜駅から降りて歩く。ふだんは閑散としてほとんど乗降者がいない牛浜駅も人でごった返していた。基地までは、絶え間ない人なみが行列を作る。行列を整理するための警察も出動し、家族連れもいれば、浴衣姿のカップルもいる。観光バスで関西から団体で来ている人もいた。
そして、いつもは物々しい装備をして渋い顔をしたガードマンが仁王立ちしている基地のゲート。いつもは、睨まれそうで、ゲートに目を向けることさえ憚られる。それなのに、この日に限ってはガードマンも笑顔でウェルカム!といった感じで、普段との違いに驚いた。話には聞いていたが、この日は本当に基地にとっても、福生の街にとっても、基地にやってくる人にとっても文字通りお祭りなのだろう。
滑走路の一部で開かれている友好祭では、煙を出しながら焼くステーキや大きなビールを売る売店やフリーマーケット、バンドによる演奏が催されている。アメリカ人が大きな歓声を上げながら巨大なステーキを焼く、そして、小さな子供がおいしそうにステーキを頬張っている。肉が焼ける香ばしい匂いに誘われて、自分もステーキを食べた。一言でいえばアメリカンなパサパサして噛みごたえのある味。他には、戦闘機や輸送機なども展示されていた。マニアの人にとっては珍しいようで、カメラを持った人も多い。まさに、基地の外以上に人、人、人…一杯だ。
そんな中、最も印象に残ったのは滑走路の大きさと基地の広さだった。滑走路の端から基地を眺める。すると、見渡す限り地平線上にコンクリートがずっと広がっている。それは、決して地図だけを見たらおよそ想像することはできない広さだった。そして、その先に、基地の施設を思われる建物がぽつんと小さく見える。ここは日本なのか。東京、日本に住んでいてこんなにぽっかりと空いた空間を体験したことはなかった。もちろん、ここは基地なのだから、アメリカの領土かもしれない。それでも、本当に自分が日本と国境という線を一枚隔てた場所にいることが信じられなかった。
輸送機と思われる飛行機が一機離陸する。その姿を見て、ちょっと怖くなった。
もし、戦争が起こったら、その飛行機が爆弾を積んだ戦闘機に代わり、戦地へと飛び立つ。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時、まさにこの滑走路から飛び立った戦闘機が爆撃し、多くの被害を出した。戦争が発生した途端、自分が今いる場所は前線基地となるのだ。まるで、今日はそんなことを微塵も感じさせないほど盛り上がっているが、ここは戦争に直結する場所、基地である。9・11の直後、横田基地はものすごい雰囲気だったというが、友好祭の時に基地が見せるのは非日常の姿に過ぎないのかもしれない。
お祭りとして笑顔で一杯のアメリカ人も、時に軍人として人を殺しに、国を守りに戦地へと赴く。今日お祭りに来ている中で、そのことを思う人はどれだけいるだろうか。
それに、基地は東京だけでなく、沖縄にも岩国にもあり、全国に点在している。ゼミにいて、密約を調べたり、土地を強制収用された人の話や基地の横の小学校の様子をVTRで見たり、横田の周りを取材して、少しは基地を理解した気にはなっていた。それでも、今日基地に入って、自分が知っているのはほんの氷山の一角にしか過ぎないことを改めて思った。基地に入ると感じる、この違和感。なんか日本なのに日本でない感じ。これは基地に入らないと肌で感じることはできない。そんなことを考えながら、夕日に赤く染まった滑走路を後にした。
その4日後、後輩に同行して、山口茂さんという方を取材する機会があった。山口さんは、戦後、横田射撃場に勤務し、その後、横田基地に勤務して、62歳まで勤め上げた方だ。山口さんの家は、牛浜駅から歩いて5分。まさに、基地のすぐそばで住んでいて、私は友好祭の日も基地へ向かう途中、山口さんのお宅の前を通り過ぎていた。
「戦後の混乱で、これからの日本はどうなるんだろうと、自分はどうすれば生きていけるんだろう。そんな不安があった」。そんな中、山口さんは市町村からの募集を知り、基地で働くことを決めた。「当時の仕事はきつかったね。横田基地から瑞穂町まで資材を運んで、重いし、夏は暑いし、本当にきつかった」。山口さんを含め多くの日本人が、アメリカ人の指導のもと横田射撃場の建設や運営の要員として働いた。
ただ、きつい労働の中でも楽しかったこともあったという。それは、アメリカ人の家族との遠足や桜見などのリクリエーションだった。「最初は戦争のすぐ後で、相手の体はでかいし、髪の色は違うし、そりゃ恐ろしかったよ。でも、話してみると一人一人いいやつで。アメリカ人とのい交流は楽しかったねー」。そう言いながら、山口さんは笑顔で退職の時に記念として基地の軍人たちから贈られた木製の盾を見せてくれた。その言葉を聞いた時、福生の模型店のおばあちゃんの言葉を思い出した。おばあちゃんも同じようにアメリカ人と実際に会って、言葉を交わして、異文化への壁をなくした人だった。基地の周りや中で働く人には、そんな人間が数多くいる。
「もうねー。戦後、いつの間にかアメリカ軍が進出してきて、気付いたら基地ができてた感じだよね。自分の将来が全く見えない中で、基地で働いて最初はきついし、生きていけるか不安だった。でも、そんな中基地で働くことができて、よかったとは思うよ」。
そう言った山口さんだが、あえて沖縄の基地問題について聞いてみた。「そりゃね。やっぱり、沖縄は地上戦もあって、あそこで血が流れたわけだから、特別な感情もあるよね。いろんな問題もあって難しいと思うよ。ただね、沖縄であっても実際に基地で働けることで生きていける人もいるっていうのは本当だよね」。山口さんは、言葉を選びながら、人生の多くを基地で過ごしてきた日本人として話した。基地で働いて人だからこそその言葉は重い。
今まで私は、辺野古で反対運動をする人や基地の存在をよく思わない人の存在を知ることはあっても、基地に恩恵を受けた人の話を直接聞くことはなかった。そう思うと、当事者に直接話を聞くことでも意味はあったのかなと、感じる。一方で、基地があることに抵抗を感じ、不利益を被っている人間もいるのは事実だ。両者は、きっと歩みあうことはできないだろう。問題は複雑だ。
取材の後半、ゴーっという大きな音が響く。基地の飛行機が山口さんの家の上を通過した。その音を聞いて、「ベトナム戦争の時は、本当にこの戦闘機の音が止むことはなかった。今と比べると、ものすごい数の飛行機は離着陸を繰り返していた」と山口さんは言う。すると、それまで横でだまって話を聞いていた奥さんが苦笑いしながらポツリと言った。「確かにね、飛行機が多く飛ぶということは戦争が起こっていることだとは思うんです。でも、うちはね、この飛行機の音が止んだら生きていけなかったんですよ。皮肉なことにね」。
その後、取材を終え、牛浜駅へと向かった。轟音とともに、頭上を飛行機が通り過ぎる。奥さんが言った言葉とその微妙な笑顔がふと思い出された。
ふだんは決して入ることができない、基地に入ることができない唯一の機会である。
基地までは、一番近い牛浜駅から降りて歩く。ふだんは閑散としてほとんど乗降者がいない牛浜駅も人でごった返していた。基地までは、絶え間ない人なみが行列を作る。行列を整理するための警察も出動し、家族連れもいれば、浴衣姿のカップルもいる。観光バスで関西から団体で来ている人もいた。
そして、いつもは物々しい装備をして渋い顔をしたガードマンが仁王立ちしている基地のゲート。いつもは、睨まれそうで、ゲートに目を向けることさえ憚られる。それなのに、この日に限ってはガードマンも笑顔でウェルカム!といった感じで、普段との違いに驚いた。話には聞いていたが、この日は本当に基地にとっても、福生の街にとっても、基地にやってくる人にとっても文字通りお祭りなのだろう。
滑走路の一部で開かれている友好祭では、煙を出しながら焼くステーキや大きなビールを売る売店やフリーマーケット、バンドによる演奏が催されている。アメリカ人が大きな歓声を上げながら巨大なステーキを焼く、そして、小さな子供がおいしそうにステーキを頬張っている。肉が焼ける香ばしい匂いに誘われて、自分もステーキを食べた。一言でいえばアメリカンなパサパサして噛みごたえのある味。他には、戦闘機や輸送機なども展示されていた。マニアの人にとっては珍しいようで、カメラを持った人も多い。まさに、基地の外以上に人、人、人…一杯だ。
そんな中、最も印象に残ったのは滑走路の大きさと基地の広さだった。滑走路の端から基地を眺める。すると、見渡す限り地平線上にコンクリートがずっと広がっている。それは、決して地図だけを見たらおよそ想像することはできない広さだった。そして、その先に、基地の施設を思われる建物がぽつんと小さく見える。ここは日本なのか。東京、日本に住んでいてこんなにぽっかりと空いた空間を体験したことはなかった。もちろん、ここは基地なのだから、アメリカの領土かもしれない。それでも、本当に自分が日本と国境という線を一枚隔てた場所にいることが信じられなかった。
輸送機と思われる飛行機が一機離陸する。その姿を見て、ちょっと怖くなった。
もし、戦争が起こったら、その飛行機が爆弾を積んだ戦闘機に代わり、戦地へと飛び立つ。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時、まさにこの滑走路から飛び立った戦闘機が爆撃し、多くの被害を出した。戦争が発生した途端、自分が今いる場所は前線基地となるのだ。まるで、今日はそんなことを微塵も感じさせないほど盛り上がっているが、ここは戦争に直結する場所、基地である。9・11の直後、横田基地はものすごい雰囲気だったというが、友好祭の時に基地が見せるのは非日常の姿に過ぎないのかもしれない。
お祭りとして笑顔で一杯のアメリカ人も、時に軍人として人を殺しに、国を守りに戦地へと赴く。今日お祭りに来ている中で、そのことを思う人はどれだけいるだろうか。
それに、基地は東京だけでなく、沖縄にも岩国にもあり、全国に点在している。ゼミにいて、密約を調べたり、土地を強制収用された人の話や基地の横の小学校の様子をVTRで見たり、横田の周りを取材して、少しは基地を理解した気にはなっていた。それでも、今日基地に入って、自分が知っているのはほんの氷山の一角にしか過ぎないことを改めて思った。基地に入ると感じる、この違和感。なんか日本なのに日本でない感じ。これは基地に入らないと肌で感じることはできない。そんなことを考えながら、夕日に赤く染まった滑走路を後にした。
その4日後、後輩に同行して、山口茂さんという方を取材する機会があった。山口さんは、戦後、横田射撃場に勤務し、その後、横田基地に勤務して、62歳まで勤め上げた方だ。山口さんの家は、牛浜駅から歩いて5分。まさに、基地のすぐそばで住んでいて、私は友好祭の日も基地へ向かう途中、山口さんのお宅の前を通り過ぎていた。
「戦後の混乱で、これからの日本はどうなるんだろうと、自分はどうすれば生きていけるんだろう。そんな不安があった」。そんな中、山口さんは市町村からの募集を知り、基地で働くことを決めた。「当時の仕事はきつかったね。横田基地から瑞穂町まで資材を運んで、重いし、夏は暑いし、本当にきつかった」。山口さんを含め多くの日本人が、アメリカ人の指導のもと横田射撃場の建設や運営の要員として働いた。
ただ、きつい労働の中でも楽しかったこともあったという。それは、アメリカ人の家族との遠足や桜見などのリクリエーションだった。「最初は戦争のすぐ後で、相手の体はでかいし、髪の色は違うし、そりゃ恐ろしかったよ。でも、話してみると一人一人いいやつで。アメリカ人とのい交流は楽しかったねー」。そう言いながら、山口さんは笑顔で退職の時に記念として基地の軍人たちから贈られた木製の盾を見せてくれた。その言葉を聞いた時、福生の模型店のおばあちゃんの言葉を思い出した。おばあちゃんも同じようにアメリカ人と実際に会って、言葉を交わして、異文化への壁をなくした人だった。基地の周りや中で働く人には、そんな人間が数多くいる。
「もうねー。戦後、いつの間にかアメリカ軍が進出してきて、気付いたら基地ができてた感じだよね。自分の将来が全く見えない中で、基地で働いて最初はきついし、生きていけるか不安だった。でも、そんな中基地で働くことができて、よかったとは思うよ」。
そう言った山口さんだが、あえて沖縄の基地問題について聞いてみた。「そりゃね。やっぱり、沖縄は地上戦もあって、あそこで血が流れたわけだから、特別な感情もあるよね。いろんな問題もあって難しいと思うよ。ただね、沖縄であっても実際に基地で働けることで生きていける人もいるっていうのは本当だよね」。山口さんは、言葉を選びながら、人生の多くを基地で過ごしてきた日本人として話した。基地で働いて人だからこそその言葉は重い。
今まで私は、辺野古で反対運動をする人や基地の存在をよく思わない人の存在を知ることはあっても、基地に恩恵を受けた人の話を直接聞くことはなかった。そう思うと、当事者に直接話を聞くことでも意味はあったのかなと、感じる。一方で、基地があることに抵抗を感じ、不利益を被っている人間もいるのは事実だ。両者は、きっと歩みあうことはできないだろう。問題は複雑だ。
取材の後半、ゴーっという大きな音が響く。基地の飛行機が山口さんの家の上を通過した。その音を聞いて、「ベトナム戦争の時は、本当にこの戦闘機の音が止むことはなかった。今と比べると、ものすごい数の飛行機は離着陸を繰り返していた」と山口さんは言う。すると、それまで横でだまって話を聞いていた奥さんが苦笑いしながらポツリと言った。「確かにね、飛行機が多く飛ぶということは戦争が起こっていることだとは思うんです。でも、うちはね、この飛行機の音が止んだら生きていけなかったんですよ。皮肉なことにね」。
その後、取材を終え、牛浜駅へと向かった。轟音とともに、頭上を飛行機が通り過ぎる。奥さんが言った言葉とその微妙な笑顔がふと思い出された。
by matsuyama-nagoya
| 2010-09-01 06:57