2009年 10月 31日
父と電話 |
父は、アナログ人間である。いい意味でも悪い意味でも、昔の人間なのだ。きっと職人で頑固だから、新しいものとか、目に見えなくて進んでいくものが苦手なんだと思う。インターネットもわからなければ、地デジもわからない。ネットで調べるからと私が言っても、すぐに信用できないと言って104にかける。父のうなぎ屋にあるテレビもブラウン管である。そのテレビは2011年のその日まで地デジに変わることはないだろう。
そんな父が、数年前やっと携帯電話を持った。家族に薦められて渋々だった。でも、アナログなだけあって、メールもしなければ、iモードもしない。ただ電話だけ。電話帳の使い方だけ覚えて、早々に分厚い説明書はゴミ箱行きとなった。
ところが、携帯を持ったは持ったで大変である。外出先からでも用があれば、東京の息子にすぐ電話をかけてくるのだ。特に用がなくても、数日おきに電話。電波が通じなかったりして出ないと、あとで怒る。出れば、「元気か?」「まぁ頑張れ」と短い言葉。息子もめんどくさがりだから、「まぁまぁ元気」とか「大学は楽しい」とか適当な返事しかしない。たまに、父が仕事終わりにかけてくると、その時間、息子は居酒屋にいたりする。周りがうるさいと、大変である。「どこを遊んでいるんだ」と厳しく詰問する。
そんなことだから、私から電話をかけることはほとんどなかった。どうせ短い電話ならメールにしてほしい。父の電話はめんどくさい。ちょっと前まで、私はそう思っていた。
ただ、最近病気になって、何となく父がメールを使わない理由、というか、息子に電話をする気持ちがわかった気がする。とともに、もう少し自分から話せばよかったなと後悔する。
入院してから、夜、人と電話をすることが多くなった。大学の同級生や後輩、先輩が相手だ。それは数秒で終わってしまう電話もあれば、時に数時間に及ぶ長電話もある。
「何を話しているか」
そう聞かれても、お互いの近況報告だったり、冗談だったり、くだらないことばかりだ。
でも、たとえ大したことない内容であっても、短い間であっても、離れて会うことが叶わない人の声を聞くのは、嬉しい。その人の言葉の調子、息遣いや話しぶりから、
「あぁ、この人は元気なんだ。よかった」
と思うことができる。
「今ね、大学はキンモクセイのいい香りがするんだよ」
そんな言葉を聞くと、ほんのりとしたあの甘い香りの記憶が蘇ってくる。同時に、秋深まったこの時節、肌寒さを感じながら、ゼミ生と急いだ帰り道を思い出す。多摩の人間の声を聞くと、一瞬多摩が私の側にやってきたような気がして、早く治して帰ろうと励まされる。
そして、苦しいことや辛いことがあったとき、
「あー、まじありえんわー。リハビリきつすぎるしー」
なんて、ほんの少しでも愚痴を聞いてもらえるだけで、すっと心が軽くなる。ふだん面と向かって、人に弱音なんて言えないけど、電話だと不思議と言うこともできる。
治療する機械の音だったり、消毒のアルコールのにおいだったり、病院というのは無機質で、世間と隔てた空間だ。時として、人に「死」という言葉を意識させることもある。でも、直に、生に、リアルタイムで、その人の声を聞き、話しかける電話。それは、その瞬間を電話の相手と生きているという意味で、病院という灰色の空間で「生」を感じさせてくれる存在だ。一歩通行のメールでは、決してその代役は務まらない。
電話は、闘病の支えになっている。たぶん、私はそれなくして頑張れないと思う。電話は確かに空間上は離れているし、相手の顔が見えない。でも、電話での会話だって、体で「会」わなくても、心で「会」って「話」すことができる。いくら時代が進んでも、電話は電話だ。固定電話から携帯電話とその形を変えても、コミュニケーションの老舗として人と人、そして心と心をつなぎ続ける。そんな電話を最近私は好きになった。
東京にいたころ、そんなことは全く感じなかった。だから、父の電話に対してもぞんざい態度をとっていたのだと思う。父から私に話したり、聞くばかりで、私が父に何か聞いたり、大学や日常のことを話すことはほとんどなかった。父は、たとえ口数の少ない息子との電話でも嬉しかったのだろうか。その声を聞いただけで、息子の健在を知り、安心したのだろうか。だとしたら、電話のありがたみがわかった今、親不幸な息子は、反省する。もう少し、日々の楽しかったことや不安なことを父に話せばよかったと。
そう言えば、私から父にかけた数少ない電話の中に、この病気にかかっていることがわかったとき、東京の大学病院からかけた電話があった。確か、その時も、私はただ病名を伝えるだけで、病気の詳細や今後について何も父に話さなかった。本当は父に心配をかけたくなかった。でも、父は電話を切った後、その病名だけを頼りに知り合いの医者に助けを求め、ショックを受け、翌日、父が店を開いて以来、定休日以外の日に初めて仕事を休んだことは、あとになって祖母から聞かされた。
後悔しても仕方がないと思う。だからこそ、まず、病気を治して、そして、東京に帰ったら、自分から頻繁に父に電話をしようと思う。
先日、見舞いにやってきた父親に怒られた。
「病院にいるのに、何で東京で普通に暮らしている時より電話代が高いんだ。誰と電話しとるんだ。」
片手には電話代の請求書が握られている。見ると、数万円である。今月は使いすぎた。やばい、高い。そう思ったけど、時すでに遅い。続けて父はこう言った。
「まぁー、あれだ。東京に彼女とかいたりするのか。だから電話が高いのか。できたらできたで、きちんと言いなさい」
答えは、残念ながらノーだ。聞かれなくても決まっている。
たぶん、病気が治っても、いい報告ができるのは随分先になるはずだ。
でも、そんな幸せな報告もいつか電話でできたらいいと思う。
そんな父が、数年前やっと携帯電話を持った。家族に薦められて渋々だった。でも、アナログなだけあって、メールもしなければ、iモードもしない。ただ電話だけ。電話帳の使い方だけ覚えて、早々に分厚い説明書はゴミ箱行きとなった。
ところが、携帯を持ったは持ったで大変である。外出先からでも用があれば、東京の息子にすぐ電話をかけてくるのだ。特に用がなくても、数日おきに電話。電波が通じなかったりして出ないと、あとで怒る。出れば、「元気か?」「まぁ頑張れ」と短い言葉。息子もめんどくさがりだから、「まぁまぁ元気」とか「大学は楽しい」とか適当な返事しかしない。たまに、父が仕事終わりにかけてくると、その時間、息子は居酒屋にいたりする。周りがうるさいと、大変である。「どこを遊んでいるんだ」と厳しく詰問する。
そんなことだから、私から電話をかけることはほとんどなかった。どうせ短い電話ならメールにしてほしい。父の電話はめんどくさい。ちょっと前まで、私はそう思っていた。
ただ、最近病気になって、何となく父がメールを使わない理由、というか、息子に電話をする気持ちがわかった気がする。とともに、もう少し自分から話せばよかったなと後悔する。
入院してから、夜、人と電話をすることが多くなった。大学の同級生や後輩、先輩が相手だ。それは数秒で終わってしまう電話もあれば、時に数時間に及ぶ長電話もある。
「何を話しているか」
そう聞かれても、お互いの近況報告だったり、冗談だったり、くだらないことばかりだ。
でも、たとえ大したことない内容であっても、短い間であっても、離れて会うことが叶わない人の声を聞くのは、嬉しい。その人の言葉の調子、息遣いや話しぶりから、
「あぁ、この人は元気なんだ。よかった」
と思うことができる。
「今ね、大学はキンモクセイのいい香りがするんだよ」
そんな言葉を聞くと、ほんのりとしたあの甘い香りの記憶が蘇ってくる。同時に、秋深まったこの時節、肌寒さを感じながら、ゼミ生と急いだ帰り道を思い出す。多摩の人間の声を聞くと、一瞬多摩が私の側にやってきたような気がして、早く治して帰ろうと励まされる。
そして、苦しいことや辛いことがあったとき、
「あー、まじありえんわー。リハビリきつすぎるしー」
なんて、ほんの少しでも愚痴を聞いてもらえるだけで、すっと心が軽くなる。ふだん面と向かって、人に弱音なんて言えないけど、電話だと不思議と言うこともできる。
治療する機械の音だったり、消毒のアルコールのにおいだったり、病院というのは無機質で、世間と隔てた空間だ。時として、人に「死」という言葉を意識させることもある。でも、直に、生に、リアルタイムで、その人の声を聞き、話しかける電話。それは、その瞬間を電話の相手と生きているという意味で、病院という灰色の空間で「生」を感じさせてくれる存在だ。一歩通行のメールでは、決してその代役は務まらない。
電話は、闘病の支えになっている。たぶん、私はそれなくして頑張れないと思う。電話は確かに空間上は離れているし、相手の顔が見えない。でも、電話での会話だって、体で「会」わなくても、心で「会」って「話」すことができる。いくら時代が進んでも、電話は電話だ。固定電話から携帯電話とその形を変えても、コミュニケーションの老舗として人と人、そして心と心をつなぎ続ける。そんな電話を最近私は好きになった。
東京にいたころ、そんなことは全く感じなかった。だから、父の電話に対してもぞんざい態度をとっていたのだと思う。父から私に話したり、聞くばかりで、私が父に何か聞いたり、大学や日常のことを話すことはほとんどなかった。父は、たとえ口数の少ない息子との電話でも嬉しかったのだろうか。その声を聞いただけで、息子の健在を知り、安心したのだろうか。だとしたら、電話のありがたみがわかった今、親不幸な息子は、反省する。もう少し、日々の楽しかったことや不安なことを父に話せばよかったと。
そう言えば、私から父にかけた数少ない電話の中に、この病気にかかっていることがわかったとき、東京の大学病院からかけた電話があった。確か、その時も、私はただ病名を伝えるだけで、病気の詳細や今後について何も父に話さなかった。本当は父に心配をかけたくなかった。でも、父は電話を切った後、その病名だけを頼りに知り合いの医者に助けを求め、ショックを受け、翌日、父が店を開いて以来、定休日以外の日に初めて仕事を休んだことは、あとになって祖母から聞かされた。
後悔しても仕方がないと思う。だからこそ、まず、病気を治して、そして、東京に帰ったら、自分から頻繁に父に電話をしようと思う。
先日、見舞いにやってきた父親に怒られた。
「病院にいるのに、何で東京で普通に暮らしている時より電話代が高いんだ。誰と電話しとるんだ。」
片手には電話代の請求書が握られている。見ると、数万円である。今月は使いすぎた。やばい、高い。そう思ったけど、時すでに遅い。続けて父はこう言った。
「まぁー、あれだ。東京に彼女とかいたりするのか。だから電話が高いのか。できたらできたで、きちんと言いなさい」
答えは、残念ながらノーだ。聞かれなくても決まっている。
たぶん、病気が治っても、いい報告ができるのは随分先になるはずだ。
でも、そんな幸せな報告もいつか電話でできたらいいと思う。
by matsuyama-nagoya
| 2009-10-31 06:34